昭和女子大学の沿革
INDEX
Point
- 建学の精神「世の光となろう」
- 校訓三則「清き気品 篤き至誠 高き識見」
- 創立者 人見圓吉
- レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
大学の沿革
昭和女子大学の前身
昭和女子大学の歴史は、大正9(1920)年に始まります。斬新華麗な詩風を以って知られた詩人である人見圓吉は、トルストイが理想とした“愛と理解と調和”に教育の理想を見出し、緑夫人とともに女子教育の道を歩み始めました。折しも第一次世界大戦終結の年に当たり、4千万人の人々が大戦の影響を受けて、不幸な状況に遭遇していました。創立者の平和への願いが、自己の進路を見失わない女性、すすんで世のため人のために自己の力を役立てようとする女性を育てたいという信念となり、本学の前身「日本女子高等学院」の創立となったのです。
創立者が理想としたロシアの文豪トルストイは、西暦1859年、公職を退いてヤースナヤ・ポリャーナに塾のような学校を建てました。午前中は授業、午後は生徒達と近隣の病めるもの、貧しきもの、老いたものなど、他の者の愛なくしては生活できない人々の家を訪ねて、食を与え、衣を取替え、看病し、掃除し、洗濯するなどの活動に当たりました。人々はこれを感謝して迎えました。夕食後に生徒達は、トルストイを中心として語り合い、次の学修の課題を求めて励んだということです。
昭和女子大学とトルストイ
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
(1828〜1910)
(1828〜1910)
教育者として、出身地であるロシア中部のヤースナヤ・ポリャーナに学校を開き、村の子供たちに「愛と理解と調和」に立脚する真の人間教育を施しました。詰め込みではなく、子供たちと寝食を共にして奉仕活動を行い、子供たちと共に考え、一人一人の個性を重んじる教育は、今またロシアで復活し、各地に「トルストイ学校」が創られています。
人見圓吉・緑夫妻はこのような精神に深く共鳴して、1920年に本学の前身である「日本女子高等学院」を創設しました。また、人見楠郎元理事長は、1996年、日本の教育・研究者らと共に「日本トルストイ協会」を設立、会長に推されて本学トルストイ室にその事務局を置き、トルストイの研究・教育思想の普及に努め、トルストイが学校で使った教科書『トルストイのアーズブカ』を日本語に翻訳して、全国の小学校に無償配布するなどの活動を展開しました。本学の創立80周年には大規模なトルストイ展を開き、建学の精神の象徴として高さ2.5メートルにも及ぶトルストイ像を創立者記念講堂の前に建立しました。本学を中心に組織される「トルストイを訪ねる旅」はこれまで11回を数え、関係する書籍を集めた「トルストイ文庫」は現在1,228冊になっています。図書館に足を運び「トルストイ文庫」をひもといてみましょう。
大正7年、女子教育への高い理想を抱く人々と、婦人としての充実と向上を希求する若い女性とが「文化懇談会」と称した集いをはじめ、教育問題、婦人問題、一般文化問題などについて、日頃抱く考えをお互いに語り合い、疑問とするところを論じ合いました。
中心メンバーは、人見圓吉・緑夫人、松本赳、加治いつ、坂本由五郎の5名で、小石川区高田若葉町の人見宅を本拠とし、例会を開いていました。発足当初は20数人の小さな会合でした。伝え聴いて参加する者が日毎に増え、回を重ねていくにつれて、このような意義のある会合は、もっと広く若い女性にも開放してはどうかという意見が多くなりました。大正8年4月には従来の「文化懇談会」をいっそう組織化して、「日本婦人協会」を結成しました。
女学校の家事作法教師の経験もあり、指導メンバーの最年長者でもあった加治いつを会長に推して、いよいよ組織的に毎月1回の公開講演会と研究会を開くようになりました。
大正9年9月、未だ女性の高等教育や社会的進出が拒み続けられていた時流の中で、創立者の人見圓吉は、教師と生徒が生活を共にして学ぶトルストイの学校にならって、「愛と理解と調和を旨とする新しい女性を育む学校を設立したい」という希望を持った5名の同志と共に、「日本女子高等学院」を創設しました。小石川区西江戸川町(現文京区水道4-28)の小石川幼稚園に間借りし、教師5人と受講生8人が真剣に討論しあう、ゼミナール形式の授業が始まったのです。戦争で傷つき、暗雲におおわれた世界を救い、新しい世界を切り拓くには、ぜひとも女性独自の文化を創造していかなければならない、「愛と理解と調和」を旨とする婦人の力によって女性による新たな世界改造をはからなければならない、という情熱がつくりあげた学校、それが昭和女子大学の前身である「日本女子高等学院」でした。この建学の精神は、創立当時に記された「開講の詞」に高らかに謳いあげられています。
開講の詞
夜が明けようとしてゐる。海の彼方の空にも、わが邦の上にも、新らしい思想の光が、ながい間漂うてゐたくろ雲を押し破って、眩しいばかり輝き出そうとしてゐる。それを迎へて叫ぶ人々の声をきけ。霊の底まで鳴りひびく声を、力強いその叫びをきけ。既に目ざめた人々は、文化の朝を迎へる可く、身にも心にも、仕度が十分調ってゐる。
夜が明けようとしてゐる。われ等の友よ。その愛らしき眼をとじたまま、逸楽の夢をむさぼる時はもう既に去った。われ等は、まさに来る文化の朝を迎へるために、身仕度をとり急がねばならぬ。正しき道に歩み出すために、糧を十分にとらねばならぬ。そして、目ざめたる婦人として、正しき婦人として、思慮ある力強き婦人として、文化の道を歩み出すべく、互ひに研き合はなければならない時が来たのである。
大正九年九月十日
日本女子高等学院
創設時代
「日本女子高等学院」は、大正11年1月、各種学校としての認可を東京府から受けました。人見圓吉も緑夫人の協力に支えられながら、詩人としてのペンを置いて、生きた女性の心に、生きた言葉をもって、信ずるところの真・善・美を描いていこうと決心しました。続いて3月には校舎を東中野に移し、「専門部」と並んで「女学部」を付設するにいたりました。学校の経営は赤字続きの細々とした財政ながらも、校舎の中では、常に教師と学生の熱のこもった教育活動が行われ、その校風を慕って入学してくる学生の数も年とともに増えていきました。大正14年4月には、東京府豊多摩郡野方町上高田39番地(現中野区上高田1-39)に新校舎を建設、この地で現在の昭和女子大学の基礎を育みました。しかし、第二次世界大戦が勃発し、戦災により東京が焦土と化したときに、本校の校舎や寮舎も全焼し、その4ヵ月後に漸く戦争が終了したのです。
昭和女子大学の設立
敗戦を迎え、国民の意気が沈退してしまったとき、創立者人見圓吉はこう述べています。「国既に敗れて何の学問ぞ、何の教育ぞ。理解してくれる人、迎えてくれる人があってこその学問であり、教育ではないか。今日を限り8千万国民は全部奴隷だ。奴隷に必要なのは労力だけだ。むしろ学問や教育は無用であると考えて、私は絶望の淵に陥った。
敗戦5日目の朝、苦悶に苦悶を重ねて悄然と丘の上の校舎の焼跡に立っていると、見るかげもなく焼け失せた大都会の空はるか東端から、いつものように太陽がもくもくと昇りはじめ、新鮮な光を放ったあたりが生き生きとして輝いた。その時、−そうだ、学問はまさにこの太陽である。どんな人にも、どんな所にも、太陽が必要なように、学問は敗戦国民にも必要だ。それを伝えるのが教育だ、やろう、やらねばならぬ。−とその瞬間、総身に力が湧き上がってぴちぴちとした元気が出た。青年のように希望がかがやいた。その日から夜に日を継ぎ、精進に精進を重ねて、ぐいぐいとまっしぐらに進んで来た。国家とともに学園の新生の記念日であった。」
この決意を実現するため、旧東部第12部隊(近衛野砲連隊)跡地である現在の世田谷区太子堂に移転したのが、昭和20(1945)年11月9日のことでした。
この地で「日本女子高等学院」は昭和21年に「日本女子専門学校」となり、昭和24年には新学制による大学として「昭和女子大学」に移行し、昭和中学校、昭和高等学校を併設し、翌昭和25年に短期大学部を設立しました。
さらに、昭和26年に昭和幼稚園、昭和28年に昭和小学校を併設し、昭和49年に大学院修士課程、平成元年に博士課程を設置して、一貫教育体系を整えました。また、海外研修機関としての昭和ボストンを、昭和63年に開設しました。その後、平成18年にブリティッシュ・スクール・イン・トウキョウ昭和を開校、平成28年に昭和幼稚園を昭和こども園に改組しました。学部・学科の新設改編をへて、現在は大学院と学部を合わせて11専攻14学科になっています。さらに7つの研究所を置いています。
校訓三則と建学の精神
いかなる困難にあっても常に新たな道を切り拓き、一歩一歩着実に向上発展することが昭和女子大学の特性であり、その進取の精神と着実性は、学生の気風となっています。校訓三則「清き気品篤き至誠高き識見」に示されているように、本学では「上品で礼儀正しく、誠実で心豊かな、知徳を兼ね備えた女性を育てる」ことを目指しています。この校訓を基礎とし、大学生としての学問研究に徹し、国際化時代、情報化時代、文化創造の時代に活躍できる人間味にあふれた人材の育成に情熱をそそぎます。「開講の詞」に掲げられた意味を「世の光となろう」ということばに集約し、建学の精神を今に引き継いでいます。
志を立てて本学の一員となった学生の皆さんには、この創立以来の伝統を受けつぎ、自信と勇気と情熱とをもって、社会のより良い明日を建設するために、常に努力をして欲しいと願っています。
学園の創立と発展に尽くされた先生方
創立の父 人見圓吉
20歳の時、雑誌「文庫」に2篇の詩が掲載され、詩人としての人生を歩みはじめました。当初は東村というペンネームを用いていましたが、22歳以降は、東明を主に、清浦青鳥、清浦明人、アキトなどの雅号も合わせて用いました。「読売新聞」に詩・随想・批評・小説などが相次いで掲載されるようになり、それを契機に29歳で同社へ入社、文芸欄の編集を担当するようになりました。
31歳で緑夫人と結婚、33歳の春、東京女子商業学校支援のために無給講師として教壇に立ったことが、教育の世界に足を踏み入れる大きな契機となりました。
その頃に熱心に開催していた「文化懇談会」は、「日本婦人協会」、さらに女子の専門教育の場へと変貌してゆきました。しかし、第一次世界大戦後の社会情勢をうけ、さらに第二次世界大戦の激動の時代の中で、押し寄せてくる経済的困難は筆舌に尽くせぬものでした。それでも、ひたすら世の役に立つ婦人を育むことを最も重要な任務と心得て、40歳以降は総ての心と時間とエネルギーを注いで、社会に役立つ女性育成のために専念し続けました。
この間にも、教育文化の推進を願って自ら編集にあたった研究紀要「学苑」は、昭和9年以来現在まで刊行され続け、多数の研究者を育てあげ、貴重な研究を世に提供し続けてきました。
そして、学生の研究論文を補強して、55歳の10月に刊行した『文学遺跡巡礼』は、その後『近代文学研究叢書』として継続刊行され、平成13年に全77巻『別巻人見東明』を含む)が完結しました。その間、菊池寛賞を受賞、ハーバード大学東方研究所から特別研究費の助成などを受けています。
71歳の10月から「学苑」誌上に29回連載した「口語詩の発達」「口語詩の設立とその過程」、77歳の5月に「国文学」誌上に発表した「新体詩の誕生」、85歳から5年間51回連載の「明治詩歌集覧」等の研究では、自己の所論を展開すると同時に、詩人として活躍した多くの人々の業績の顕揚に努めました。また86歳の10月に、「日本近代詩論研究会」の代表者となり、文部省学術局から科学研究費の助成を受けて『日本近代詩論の研究』ならびに『昭和詩論の研究』を出版しました。さらに、従来の研究の総括である『口語詩の史的研究』(昭和50年3月出版)を完成するため、昭和49年2月に逝去する4ヶ月前まで、夕食後には必ず近代文庫事務室の一隅に置かれた小さな机に向かって研究に励んでいました。
創立の母 緑夫人
創立者人見圓吉夫人。新時代の女子教育機関の創立をうながし、その充実と発展に力を注いだ学園の母。「目覚めたる婦人」「正しき婦人」「思慮ある力強き婦人」をモットーに、自ら教壇に立ちながら、学寮において学生と寝食を共にし、身をもって女性の範を示しました。世の光となる女性の育成を目ざした本学の学風は、この学母の教育方針から生まれたといっても過言ではありません。山崎日出男 第6代理事長
学園のあゆみ
大正9年 | 9月 | 日本女子高等学院創設(現文京区水道) 初代院長加治いつ |
大正11年 | 3月 | 中野区東中野に移転 |
4月 | 附属女学部を付設 | |
大正15年 | 6月 | 中野区上高田に新校舎完成 |
昭和2年 | 7月 | 財団法人日本女子高等学院設立。初代理事長人見圓吉。附属女学部を昭和高等女学校に改称 |
昭和20年 | 4月 | 戦災により全校舎焼失 |
5月 | 戦災により寮舎焼失 | |
11月 | 世田谷区太子堂(現在地)に移転 | |
昭和21年 | 4月 | 財団法人東邦学園を設立し、日本女子専門学校を設置、(日本女子高等学院の課程を引き継ぐ) 初代校長松平俊子就任 |
昭和22年 | 4月 | 昭和中学校を併設 |
昭和23年 | 4月 | 昭和高等女学校を昭和高等学校に改称 |
昭和24年 | 4月 | 日本女子専門学校を昭和女子大学に改組・改称 初代学長金子健二就任 |
昭和25年 | 4月 | 昭和女子大学短期大学部を設置 |
昭和26年 | 3月 | 財団法人東邦学園を学校法人昭和女子大学、財団法人日本女子高等学院を学校法人昭和高等学校に改称 |
4月 | 短期大学部第二部を併設 昭和幼稚園を付設 | |
昭和28年 | 4月 | 昭和小学校を付設 |
昭和31年 | 6月 | 児童教育研究所を付設 |
昭和37年 | 1月 | 第2代学長玉井幸助就任 |
昭和38年 | 4月 | 学校法人昭和女子大学に学校法人昭和高等学校を併合 |
昭和44年 | 1月 | 第3代学長河鰭實英就任 |
昭和45年 | 4月 | 近代文化研究所を設置 |
昭和49年 | 2月 | 初代理事長人見圓吉逝去 第2代理事長人見楠郎就任 |
4月 | 大学院文学研究科修士課程を設置 | |
昭和53年 | 4月 | 文家政学部を文学部と家政学部に分離 |
昭和55年 | 2月 | 創立者記念講堂を開設 |
4月 | 第4代学長坂本由五郎就任 | |
昭和57年 | 4月 | 第5代学長人見楠郎就任 |
昭和61年 | 4月 | 大学院家政学研究科修士課程を設置 短期大学部に専攻科併置 |
5月 | 女性文化研究所を設置 | |
昭和63年 | 4月 | ボストン昭和女子大学を開設 |
平成元年 | 4月 | 大学院文学研究科に博士課程 大学院生活機構研究科博士 オープンカレッジを設置 |
平成4年 | 4月 | 文学部に心理学科・日本文化史学科を設置 |
5月 | 国際文化研究所を設置 | |
平成5年 | 4月 | 大学院生活機構研究科に修士課程を設置 |
平成6年 | 4月 | 短期大学部学長福場博保就任 家政学部を生活科学部に改称 研究館・光葉博物館を開設 |
平成7年 | 4月 | 生活心理研究所を設置 |
平成10年 | 4月 | 生活科学部生活美学科を生活環境学科に改称 |
平成12年 | 11月 | 第2代理事長人見楠郎逝去 第3代理事長に人見楷子就任 第6代学長福場博保就任 |
平成14年 | 4月 | 生活科学科食物学専攻を食物健康学専攻に改称 専攻科人間教育学専攻を設置 |
平成15年 | 4月 | 第7代学長平井聖就任 人間社会学部(心理学科・福祉環境学科・現代教養学科)を設置 文学部を人間文化学部、日本文学科を日本語日本文学科、英米文学科を英語コミュニケーション学科、日本文化史学科を歴史文化学科に改称 短期大学部に人間文化学科・同第二部を設置 |
平成16年 | 4月 | 短期大学部学長島田淳子就任 |
平成17年 | 4月 | 大学院文字研究科に言語教育・コミュニケーション専攻、大学院生活機構研究科に心理学専攻を設置 |
平成18年 | 4月 | 大学院生活機構研究科に福祉社会研究専攻を設置、人間社会学部に初等教育学科、短期大学部に文化創造学科、同二部を設置,短期大学部初等教育学科を子ども教育学科に改称 |
平成19年 | 4月 | 第8代学長坂東眞理子就任 大学院生活機構研究科に環境デザイン研究専攻を設置 短期大学部に文化創造学科(昼間主コース・夜間主コース)を設置 |
平成20年 | 4月 | 短期大学部学長坂東眞理子就任 大学院生活機構研究科に人間教育学専攻を設置 |
平成21年 | 4月 | 人間文化学部に国際学科、生活科学部に健康デザイン学科を設置 人間社会学部福祉環境学科を福祉社会学科、生活科学部生活環境学科を環境デザイン学科、生活科学科を管理栄養学科に改称 |
平成23年 | 4月 | 第4代理事長に平尾光司就任 |
平成25年 | 4月 | 大学院文学研究科に文学言語学専攻を設置 グローバルビジネス学部(ビジネスデザイン学科)を設置 現代ビジネス研究所を設置 |
8月 | 地域連携センターを設置 | |
平成26年 | 4月 | 第5代理事長に坂東眞理子就任 |
5月 | キャリアカレッジを設置 | |
11月 | 現代教育研究所を設置 | |
平成27年 | 4月 | 女性健康科学研究所を設置 |
平成28年 | 4月 | 第9代学長金子朝子就任 昭和こども園を付設 ダイバーシティ推進機構を設置 |
7月 | 総長に坂東眞理子就任 | |
平成29年 | 4月 | 人間文化学部から英語コミュニケーション学科と国際学科を分離し国際学部を設置 生活科学部に食安全マネジメント学科を設置 |
平成30年 | 4月 | グローバルビジネス学部に会計ファイナンス学科を設置 地域連携センターと昭和デザインオフィスを再編成し昭和リエゾンセンターを設置 |
令和2年 | 4月 | 生活科学部から環境デザイン学科を分離し、環境デザイン学部を設置 |
10月 | 第10代学長小原奈津子就任 昭和リエゾンセンターを発展的解消 | |
令和3年 | 4月 | 生活科学部を食健康科学部に改称 人間文化学部英語コミュニケーション学科を廃止 大学院生活機構研究科福祉社会研究専攻及び生活文化研究専攻に社会人対象の1年制コースを開設 |
令和4年 | 4月 | 大学院文学研究科言語教育・コミュニケーション専攻に1年制コースを開設 人間文化学部国際学科を廃止 総合教育センターを全学共通教育センターに改称 |
令和5年 | 4月 | 第11代学長金尾朗就任 専門職大学院 福祉社会・経営研究科福祉共創マネジメント専攻を設置 |
令和6年 | 4月 | 日本語教育センターを設置 |
学寮のあゆみ
大正11年 | 4月 | 校内寮を開設(東中野) | 中野区所在 |
大正14年 | 4月 | 葵寮(校外寮第1号)を開設 | |
昭和3年 | 4月 | 若葉寮を開設 | |
昭和5年 | 4月 | 校内寮再開(上高田) | |
昭和8年 | 4月 | 桜寮を開設 | |
昭和14年 | 3月 | 橘寮を開設 | |
昭和16年 | 9月 | 桂寮を開設 | |
昭和20年 | 5月 | 戦災により寮舎焼失 | |
昭和20年 | 11月 | 校内寮開設(世田谷) | |
昭和22年 | 4月 | 葵寮・富士寮・敷島寮開設 | 太子堂所在 |
昭和25年 | 9月 | 橘寮を再開 | |
昭和27年 | 4月 | 桜寮を再開 | |
昭和28年 | 4月 | 桂寮を再開 | |
昭和29年 | 4月 | 若葉寮を再開(30年焼失) | |
昭和31年 | 4月 | 桂寮を開設 | |
昭和33年 | 4月 | 楓寮を開設 | |
5月 | 藤寮・茜寮を開設 | ||
昭和35年 | 4月 | 弥生・芙蓉寮を開設 | |
昭和43年 | 4月 | 椿寮を開設 | |
昭和47年 | 4月 | ときわ寮を開設 | |
昭和52年 | 4月 | 校外寮「緑声舎」新設 | 弦巻所在 |
平成元年 | 4月 | ときわ寮を建て替え、若葉寮として新発足 | |
平成3年 | 4月 | 椿寮を再開 |
昭和52年 | 4月 | 研修学寮東明学林を開設 |
昭和61年 | 3月 | 研修学寮望秀海浜学寮を開設 |
昭和62年 | 7月 | 会津キャンプ村を開設 |
平成26年 | 3月 | 校外寮緑声舎、会津キャンプ村を閉鎖 |
4月 | 学生会館を開館 | |
令和5年 | 12月 | 学生会館を閉館 |
学園の歌
昭和女子大学のキャンパスでメロディーを奏でるカリヨン、そして様々な行事で歌われる「学園の歌」には次のような祈りがこめられています。東京の昭和のキャンパスでは、定刻に響きわたるカリヨン(編鐘)のメロディで1日の生活が始まり、進行し、やがて夕べの帳(とばり)が静かにおろされてゆくしきたりになっている。その1日が積もり積もって、4月から翌年3月までの学年暦がよどみなく展開されていく。入学式、入寮式から始まって、講義や実習、瞑想や談論、クラブ活動から伝統の研修学寮における体験生活を重ねつつ、やがて卒業の日を迎える間に、数十曲のメロディーで広い学園が覆い尽くされてゆくのである。
そのカリヨン(Carillon)の中央部にある4個の鐘の表面には「BeaLighttotheWorld」(世の光となろう)という学園目標がくっきりと刻まれている。後輩たちの学園生活を健やかで豊かなものにして欲しいと希う先輩たち(光葉会)のプレゼントとして、1984年にオランダで製作されたものである。(最後に時報をつげる大鐘は、100年前のアメリカ製チャーチ・ベルである)
大学1号館の塔屋で奏でられるメロディーには、学生生活がひたすら真摯かつ理想に燃えた、爽やかで思い出多いものとなれかしという、学園の祈りもこめられている。その祈りの詞をまとめたものが、この学園の歌である。在学中にはもちろんのこと、社会に巣立ってからも励ましの声ともし、楽しい想い出の種ともして、永くあなたの心の支えとなってくれることを期待して止まない
そのカリヨン(Carillon)の中央部にある4個の鐘の表面には「BeaLighttotheWorld」(世の光となろう)という学園目標がくっきりと刻まれている。後輩たちの学園生活を健やかで豊かなものにして欲しいと希う先輩たち(光葉会)のプレゼントとして、1984年にオランダで製作されたものである。(最後に時報をつげる大鐘は、100年前のアメリカ製チャーチ・ベルである)
大学1号館の塔屋で奏でられるメロディーには、学生生活がひたすら真摯かつ理想に燃えた、爽やかで思い出多いものとなれかしという、学園の祈りもこめられている。その祈りの詞をまとめたものが、この学園の歌である。在学中にはもちろんのこと、社会に巣立ってからも励ましの声ともし、楽しい想い出の種ともして、永くあなたの心の支えとなってくれることを期待して止まない
平成元年4月
第2代理事長・第5代学長
人見 楠郎