天平の甍−鑑真大和上と唐招提寺展

唐大和上鑑真

 鑑真大和上は、六八八年、唐の則天武后の時代、長江(揚子江)の河口・揚州で生まれ た。十四歳で仏門に入り、十八歳で菩薩戒、二十一歳で具足戒を受けたのち、長安はじめ 諸国で修行を積み律学を究めた。律学とは仏教の僧侶として必ず受けるべき規定である戒律の学問のことである。唐では、正式な僧侶となるためには、全国に配置された戒壇において戒律専門の僧侶から受戒の儀式をうけるという受戒制度が確立していた。そのため律学は特に重んじられており、その授戒大師として鑑真和上の名は唐全土に広く知られていた。
 そのころ、日本においては、聖武天皇が仏教を以て天下大洋・鎮護国家を志したため、 仏教は空前絶後の発展をとげたが、一方で仏教伝来以来、国の三宝の一つとしてあがめられてきた僧侶の堕落と荒廃ぶりが眼に余るようになっていたった。天皇は、仏教界の衿を 正すために必要なのは正しい受戒制度にあると考え、唐から授戒僧を招聘することを決断された。その招聘の任務を負った二人の若き僧、栄叡・晋照が遣唐使船で出発したのは天平五年(七三三)のこと、それから九年、東奔西走した結果、ついに二人は揚州で鑑真和上に会うことができた。二人の要請に対し、弟子達が渡日を躊躇するのを見た和上は、自らが仏教興隆のため日本に赴くことを決意された。時に五十五歳。

「これ仏法のための事なり 何ぞ身命を惜しまんや」


 しかし、その後は筆舌につくせぬ苦難の連続となった。まず、朝野の帰依の篤い和上の 渡航を唐の朝廷が許可せず、密航というかたちをとらねばならなかった。さらに、ある時は密告により中断、またある時は日本とは反対の方向にある海南島に漂流するなど失敗をすること五度。同行した愛弟子祥彦や栄叡は命を落とし、あまりの疲労から和上自身も失明するに至る。天平勝宝五年七五三)和上は六十六才。すでに老齢であったが、なお渡日 伝戒の志はくじけなかった。六度目の渡航に挑み、ついにその年の十月、日本の土を踏むことができたのである。
 唐招提寺の御影堂にまつられている和上の肖像は、和上の死の直前に作られたものだか、その静かな微笑みは和上の情熱と慈愛を伝えてあますところがない。




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