天平の甍−鑑真大和上と唐招提寺展

唐招提寺

 天平勝宝五年(七五三)十月、鑑真和上一行は、遣唐副使大伴古麻呂の船で薩摩国秋妻 屋浦(鹿児島県川辺郡坊律町)に到着した。翌年二月、和上は奈良に入り、聖武天皇から 「授戒伝律は一切を和上にまかす」との詔をうけ、四月には東大寺大仏殿前に戒壇を建て 、聖武天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ多くの僧侶・貴族に戒を授けた。以来、仏教 制度の改善に努めただけではなく、一切経の誤りを正し、また薬学の知識を伝えるなど、わが国の文化に大きく貢献した。
 和上は当初、東大寺唐禅院に住していたが、天平宝字三年(七五九)に故・新田部親王 の旧宅地を朝廷から賜って戒院を建立した。これが現在の唐招提寺で、はじめは唐律招提寺と称された。「招提」の字が示すように、四方から戒律の研鑽に集まった諸国の僧達は 、ここに滞在して和上から直接指導を受け、律学を正しく学び身につけることができるよ うになった。壮大な官寺と異なり、いわば私寺である唐招提寺は、ただちに七堂伽藍が整うというわけにはいかなかったが、その後も平城京の東朝集殿を賜って講堂とするなど、和上の人格にふれ、私淑する人々によって造営が助けられた。和上が立派な堂塔よりもまず住むに足る僧房・食堂・講律のための講堂を整えたのは、律の教義の指導研究に努めたからに違いない。
 天平宝字七年(七六三)春、弟子の忍基は講堂の梁が折れる夢を見た。これは和上遷化 の前兆にちがいないと、弟子たちは、心をこめてお姿を写して尊像を造った。五月六日、 和上は結跏趺坐して七十六歳の生涯を閉じた。
 咲く花の薫るがごとき天平時代も、和上示寂と時を同じくして終焉を迎えることになる 。
 唐招提寺はその創建から千二百年以上の星霜を経てきた。しかし、今なお和上が生きて おわすがごとく、和上にお仕えすることを最大の日課としている。それゆえ、この大寺は 、いまに天平の香りを色濃く残しながら静謐そのものの中にある。


金堂の三尊像 講堂(もと平城京の朝集殿)
金堂の三尊像 講堂(もと平城京の朝集殿)



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