唐招提寺蔵・中世文書調査

覚盛 平安時代末期は、藤原氏を中心とする貴族の勢力が全盛期を過ぎ、これに代わって地方 の豪族や武士の勢力が次第に力を増していった。そのため、権力争いによる戦乱が続発し、さらには僧兵が出現するなど、人々は社会的にも精神的にも多くの不安に追い込まれた 。
 それに拍車をかけたのが、末法思想の流行である。これは釈迦の没後二千年で国が乱れ 、仏法も滅び末法の世が訪れるという考え方で、日本では、永承7年(1052)が、この末法到来の年であるとされていた。
 このような世相の中で人々の不安に応えて流行したのが、浄土教である。浄土の教えは 、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることによって、来世は阿弥陀の住す極楽浄土に生まれ ることができると説いている。これは、それまでの修行によって悟ることを説いた仏教とは違って、生活にとけこんだ親しみやすいものであったため、地方の名主層などの新興勢力や、一般庶民に多く支持されていった。法然が浄土宗を興し、鎌倉期に入ると、その弟 子の親鸞の説いた「煩悩深い人こそ阿弥陀仏が救おうとした人間である」という「悪人正機説」によって、ますます多くの信徒を獲得していった。
 こうした鎌倉新仏教の勃興に対して、これまでのように朝廷や貴族からの庇護を受けら れなくなった南都仏教諸寺院では、なんとしても時代を乗り切って、自力で復興せざるを えなかった。その結果、戒律の見直しと、仏教の祖である釈迦に帰ることを復興の主眼におき、特に唐招提寺に祀られている、鑑真和上将来の三千粒の仏舎利は、仏教信仰の原点であることが確認された。
 そこで、唐招提寺では、健仁2年(1202)東室で、解脱上人貞慶が、鑑真和上将来の仏舎 利を本尊とし、釈迦の名号「南無釈迦尼仏」を唱える釈迦念仏会を始め、復興の第一歩を踏み出した。その弟子であり、唐招提寺の中興の祖といわれる大悲菩薩覚盛は寛元2年(12 44)勅命で唐招提寺に入り、建長元年(1249)に示寂するまで、四分戒本・梵網経など律宗教典を書写し、舎利会を修するなど、律学復興に力を尽くした。
 唐招提寺には、現在もまだ調査の施されていない中世文書が、多々存在する。今後、本学での調査の結果、南都仏教復興の中心となった唐招提寺の新たな資料が発見されるものと期待されている。



鑑真大和上講式 1巻

講式1  江戸時代・元禄11年(1698)書写 縦25.5cm 全長282.4cm
 外題に本文と別筆で「開山講式」とある。講式は平安時代の中ごろから始められた法要 形式で、美しい日本語でほとけを讃嘆するのを特徴とする。中世には南都を中心に盛んに 行なわれた。この講式は鑑真和上を「大唐律宗之高僧、日域伝戒元祖」と讃嘆するもので 三段から成る。その趣旨は(1)明生縁徳行、(2)述本朝利益、(3)致廻向発願、と構成されるが、和上の行実は概ね「東征伝」に拠っている。生年14歳にして尊父と龍興寺に詣し、仏像を拝して菩提心を発し、出家を望んだことからはじめ、栄叡と普照の請を入れて渡日 を決意したこと、長屋王が中国の衆僧に、袖に「山川異城、風月同天」云々の四句偈を繍った千領の袈裟を送った故事を記すなどし、天平5年に来朝し、翌6年に東大寺廬舎那仏前 において天皇に三聚浄戒を授けた恵業を讃え、戒壇院二仏並座の宝塔建立の趣旨と、唐招提寺に将来の三千粒の舎利を安置した由縁を述べ、和上の深重の悲願と伝戒懇志の芳情に報謝し、回向をめぐらせて生きとし生けるものが皆ともに仏道を成ぜんことを願わんと結んでいる。作者と成立年時はともに不明だが、唐招提寺においては永く重んじられて、今も開山忌には御影堂の和上像前に、長老はじめ一山の僧衆によってこれが講演されている。


舎利講式 1巻

講式2  江戸時代・元禄4年(1691)書写 縦29.9cm 全長507.8cm
 外題に本文と別筆で「御舎利講式」とある。建仁3年(1203)9月に唐招提寺で鑑真将来の 舎利を奉じて釈迦念仏会を催した解脱房貞慶作の五段の講式である。この講式と念仏会の 願文には共通する文章表現もあり、またその趣旨も極めて近いので、ほぼ同時期に作成されたものと考えられる。時代は下るが「実隆公記」明応4年(1495)4月28日条に「舎利講式 者、解脱上人於招提寺経蔵被草之」と伝えられている。式文は(1)讃如来恩徳、(2)明舎利 分布、(3)嘆来世神変、(4)述事理供養、(5)致廻向発願、という構成と趣旨で、舎利を末 代に遺したのは釈尊の大慈悲であって、舎利を供養すれば衆生は無量の福を得て、仏道を成就することができると説かれている。この一巻は、奥書によると、念仏会初夜の舎利 講に久しく「舎利講式」が行なわれていなかったのを、招提寺65世照峯が元禄4年(1691)9 月19日の初夜に導師としてこれを行なったとあり、その折り用いられたものと知られる。 本文には詳細な節博士が示され、諸師の口伝が朱書で注記されていることや、紙背には、天正年間に声明家として活躍したとおぼしい尊貞の自筆口伝の一部が付されているなど、 唐招提寺流声明の歴史の一端が知られて貴重である。




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